COLUMN

36      309 これってなに?  nori
私が子供の頃、日本は戦争をしていた。出征兵士を見送るときに軍歌を歌いました。
「勝ってくるぞと勇ましく」とたくさんの軍歌を歌い、最後に「海行かば」を歌いました。 意味を知らない私達は、大きな声を出していた。
   海行かば 水漬く屍
   山行かば 草生す屍
   大君の 辺にこそ死なめ
   かへり見わせじ
これってなに?
   海に行ったら水の中で死ね
   山に行ったら草の生える屍となれ
   天皇の兵だから死ね
   帰ってくるな
 と言う事か?   山東子
  
 
更新日時:2010/3
37      308 激戦地を訪れて         sumiyo
父は、昭和20年7月27日フィリピンのルソン島にて戦死しました。生後7か月の別れでしたので、父の温もりも知らない私は、その分父への思いは強いものでした。 8年前、今は亡き母と姉とでフィリピンへ慰霊の旅に参加しました。
父からの沢山の手紙の中に「マニラ湾の素晴らしい夕陽を見せてやりたい」と書いてありました。念願であった真っ赤な夕日を眺め、父との約束を果たせたような温かい気持ちになれました。また、ルソン島北部パヨンボンの高地の慰霊をすませて下山をしている時、私の手を小さな女の子がソッと握ってきました。驚いた事には日本語で♪サクラ・サクラ♪と歌っていました。何故か、手を握り返しながら一緒に歌い、涙があふれてきました。小女の 身近な人が、日本兵から教わったそうです。
 戦地をじかに見て戦争の悲惨さ虚しさを再認識すると共に、私達のような思いを繰り返さない、平和な世の中の持続を心から願っています。
 
更新日時:2010/3
38      306 満州からの逃避行            yasuko
1945年(昭和20年)私の家族は、中国東北部・満州国奉天省(本渓県第四区田師付街大和町)に住んでいた。両親の庇護の下、ごく普通の平和な毎日を過ごしていた。
それが8月15日、終戦と同時に生活は一変した。治安が極度に悪くなり、外出できなくなった。略奪を防ぐため、窓と言う窓に板が打ちつけられた。泥棒が横行し、私たちが住んでいた部落も何軒か襲撃を受けた。私たちは恐怖におびえながら夜を明かすこともあった。
まもなく近所の人と列を組み、引き上げの逃避行をすることになった。中国人(その当時は満人と言った)に見つからないように、草をかき分けながら石ころの河原を歩いた。ある日、満人が土手に現れ、私たちに向かって石を投げてきた。石が頭や肩に降ってきたが、私たちは息を殺し草むらに身を沈め、彼らの去るのをひたすら待った。額から血を流している人、うめいている人、その時のことを思い出し、しばらく私は夢にうなされた。
どのくらい歩いたのか記憶にないが、母は2歳の弟を背中に、7歳の兄の手を引いていた。父は全財産の入ったリュックの上に4歳の私を乗せていた。引揚船の港に着いた時、お手伝いのハッチャンとはぐれてしまった。一緒につれて帰れなかったことを父は悔やんでいたが、彼女は別の便で帰国して、奈良県の方で幸せな結婚をしていた。その後再会して、父は彼女と彼女の母に泣いて侘びていた。ハッチャンは断髪し、顔に炭を塗って男の姿をして帰って来たと聞いた。
舞鶴に上陸し、私達は無蓋車(屋根の無い貨車)で郷里に向かった。  
ようやく明るくなってきた早朝、全身雨でずぶぬれになり、玄関に立った私達を、「幽霊かと思った」と祖母は何度もくり返した。リュックサックも帰る途中略奪され、文字通り無一物から私たち一家の戦後が始まった。
何が無くても逃げ回ったり、おびえることの無い生活は どんなに幸せでしょうか。
その後 戦争放棄と言う、世界に誇れる憲法が出来たことを知った。当時国民は、喜びそして感動したと、子供心にも十分その感動は理解できた。
あれから60年、あの希望と輝きに満ちた日本はどこへ行ったのだろう。
 
更新日時:2010/3
39      305 艦砲射撃           kana
ヒューッバリッバリッ大きな炸裂音が夜中に響いた。
「艦砲射撃だぞう」夜警をしていた隣の兄さんの怒鳴る声が、村中を駆け回っている。家中の者が急いで防空壕に潜り込む。ヒューッバリッバリッ!耳を劈く金属音、生きた心地もなく夜を明かした。浜松が攻撃されたと聞く。浜松の軍需工場で警備にあたっていた兄が帰って言うには、
「戦地に向かう歩兵の一連隊を乗せた列車が攻撃され、若い兵士たちが全員犠牲になった。駅周辺は余りにも無惨で、姿を留めぬ者もあり、坊主頭の兵士がすっぽりと胴体を切られた姿で座っていたのにはギョッとした」  兄の話は私の心に深い傷を残した。
間もなく終戦となった。もっと早く戦争が終わっていたら、大勢の人が死なずに済んだものをと思う。
艦砲射撃で命を失った若い兵士を思うとき、今でも私の心は痛むのである。
 
更新日時:2010/3
40      304 軍歌で育った少女期         michiyo
「若い血潮のおかれんの…。」
三歳のノー君には予科練の「よ」が言えなくて「おかれん」と覚えてしまったらしい.毎朝のように早くから元気よくこの歌が聞こえてきた。
私達は女子と言えども軍歌一色で育った子供だった。
「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日もとぶとぶ霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く。」
日本中の誰もが歌っていた「若鷲の歌」だ。「露営の歌」「愛国行進曲」「愛馬行進曲」「暁に祈る」数々の軍歌で夏の日も冬の日も行進の訓練が続いたものだった。
学級編成も男女別々に分かれていて男子との対話など全く無かった。それが終戦と同時にすべてが開放されたのだ。六年になって初めて知った男女共学である。一瞬の戸惑いは大変なものだった。
六年生最後の音楽の授業であった。
「今日は最後の授業だから、何でも自分の好きな歌を歌ってみてください。」先生の言葉にざわめいた。みんなは当時流行の歌を得意げに歌った。「りんごの唄」など…。
その中でA君の歌った「勝利の日まで」だけが未だに私の心の底に残っている。Aは教育者の家に育ち、当時はやりの流行歌というものを全く耳にしていなかったのだ。だから彼に歌える歌はこの歌しかなかったのだ。「勝利の日まで」しか。日本は負けたというのに。
学び舎を離るる会の友のうた 
       「勝利の日まで」今も忘れず
 
更新日時:2010/3
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Last updated: 2010/12/1

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